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別にお土産をあげるところもないので
いつものように自分へのお土産を

もちろんいつものやつです(笑)


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なかなかいい酒なんですよね






・体重  72.1kg
・体脂肪率 26.8%
・内臓脂肪レベル 14
・骨格筋率 31.4%
・体年齢 56
・基礎代謝 1622kcal
・BMI 25.9
・万歩計 8000歩

















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by massuru2013 | 2016-12-09 06:36 | Comments(2)

寒暖差

昼は、まだまだかなり暑いですが
朝晩はめっきり冷え込むようになりました

特に朝の散歩時は、長袖、長ズボンでないと寒くて寒くて

季節はしっかり秋になりましたね~
彼岸花の蕾も見かけました!

さあ!  秋も楽しまないと(*^^*)







・体重  71.3kg
・体脂肪率 26.4%
・内臓脂肪レベル 13
・骨格筋率 31.7%
・体年齢 55
・基礎代謝 1612kcal
・BMI 25.6
・万歩計 19000歩

ウオーキング 30分 30分





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by massuru2013 | 2016-09-09 06:51 | Comments(0)

グリーンカーテンⅡ

奥様が植えたグリーンカーテン
見事に育って、しっかりとその役目を果たしています
ただ、花が付かなかったのですよね~

ところが、朝晩の涼しさを感じ取ったのか
ここに来て次々と花を咲かせだしました

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もうしばらく楽しめそうですね






・体重  71.0kg
・体脂肪率  25.9% 
・内臓脂肪レベル  13
・骨格筋率  32.1%
・体年齢  55
・基礎代謝  1611kcal
・BMI  25.5
・万歩計 6300歩

ウォーキング 30分 







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by massuru2013 | 2016-08-25 17:52 | Comments(0)

逃げませんでしたね

お散歩中によく合うアオサギさん
いつもはカメラを向けるどころか
散歩をやめて、立ち止まるだけでも逃げます


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今日は少し鈍かったのかな?




・体重  71.7kg
・体脂肪率  26.2% 
・内臓脂肪レベル  13
・骨格筋率  31.9%
・体年齢  55
・基礎代謝  1621kcal
・BMI  25.7
・万歩計 7000歩

ウォーキング 30分 30分






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by massuru2013 | 2016-08-23 05:15 | Comments(0)

ヒメヒオウギ

昔は花壇に咲いていたんですが
今は庭を転々としながら咲いています
群生することはないですが、1本ずつでもきれいです(はい)


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ヒメヒオウギ
4~6月頃に 白、ピンク、青の花を咲かせる、草丈15cm~30cmの多年草。原産地は南アフリカのケープ地方。別名ヒメヒオウギアヤメ(姫檜扇菖蒲) 






・体重  71.0kg
・体脂肪率  25.5% 
・内臓脂肪レベル  13
・骨格筋率  32.4%
・体年齢  54 
・基礎代謝  1615kcal
・BMI  25.5













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by massuru2013 | 2016-05-19 06:34 | Comments(0)

悲運の横綱 1

2010年12月19日 (日)の日記より

悲運の横綱玉の海

前回までは、歴代の強豪力士を紹介してきました。
最後の大鵬以後も北の湖や千代の富士等の強豪力士が出ていますが、私の相撲に対する興味は、
ある強豪力士の死とともに急激に冷めてしまい、印象に残っていないためにここには登場しません。

その強豪力士とは……

玉の海 正洋   第51代横綱
愛知県宝飯郡蒲郡町出身   身長177cm、体重130kg

蒲郡市立蒲郡中学校時代は柔道で鳴らし、警察官になることを目指していたが玉乃海に勧誘され
二所ノ関部屋に入門。
1959年3月場所初土俵 四股名は玉乃嶋 9月三段目昇進
1960年11月幕下昇進
1963年9月場所新十両  柔道出身らしく、つかまえてからの投げは強いが一気の押しに弱いと     いう欠点のため、出世が遅かった。
1964年3月場所新入幕、翌場所玉乃島と改名
1965年1月新小結、7月に新関脇
1966年9月場所11勝4敗で場所後大関に昇進、しかし体格の割に相撲が大き過ぎるため
     暫く低迷、師匠片男波に命じられた鉄砲を始めとする鍛錬をひたすらこなし続ける。
1968年5月初優勝を飾り、前2場所の12勝もあって横綱は確実とみられたが、不得手の左四つ
     での相撲が印象を悪くし、しかも横綱陣は不調、相撲人気はどん底で、新横綱誕生という
     ムードにも欠けたため、横綱審議委員会が相撲協会からの答申に反対、呆気なく見送られます。
1970年1月場所13勝2敗で優勝同点。
     前場所は10勝ではあるものの「安定度は優勝の北の富士より上」との評価で横綱となった。
     ここで師匠である片男波の現役時代の四股名である玉の海の名を継いで玉の海正洋と改める。
     横綱昇進後、3場所目で9勝6敗と崩れた他は毎場所優勝を争い、12勝3敗さえ2場所のみ。
1970年9月場所から4場所連続14勝、このうち3度優勝
     大鵬とは連続して14勝1敗同士の決定戦を行い、大鵬最後の優勝(通算32回目)を
     許したものの、
     「なんのこれしき、弱いから負けるんだ」と再起を誓い、その日の夜から稽古開始。

深夜3時、貴ノ花(先代)が飲んで帰っていたところ、玉の海の車が停まっていたが運転手の姿しか
見えない。
不思議に思った貴ノ花が運転手に声を掛けると、運転手は「横綱がいるものですから」と答え、
驚いた貴ノ花が目を凝らすと、真っ暗な外苑通りを玉の海が走っていたそうです。
「その姿を見たとたん、私は自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、
しばらく玉の海さんの姿が頭から離れなかった。
私の相撲人生で大きな岐路になった出来事です」と語っています。

このようなたゆまぬ努力で、体重、上背に恵まれずとも体格の特性を生かした堂々たる四つ相撲を
会得。
反り腰の強さを生かした右四つの型の完成度は ”双葉山の再来”とさえ言われました。
投げ技も豪快で、吊りも得意、寄りながらサッと吊り上げる吊り出しの技術は相撲史上最高との評価もあります。
欠点は脇の甘さで、差し負けることも多かったが、
横綱昇進後は左四つでも廻しを取れば下位に負けることはほとんどなくなった。

そして、地元名古屋での7月場所には夢の全勝優勝を果たし、
多くの識者から「まもなく北玉時代から、玉の海独走時代になる」と期待されましたが……。
場所後に虫垂炎に罹患し、夏巡業を途中で休場するなど容態が芳しくなく
早急な手術が必要な状態だったが、横綱としての責任感の強さから注射で抑えて土俵を勤め
12勝を挙げた。
しかし、無理がたたりこれが結果として玉の海の生命を縮めることとなった。
場所後手術を終え、経過は順調と伝えられていたが
退院を明日に控えた1971年10月11日の朝、
起床して洗顔を終え、ベッドに戻ったところ、胸の苦しさを訴えその場に倒れた。
そのとき既にチアノーゼ反応が起きており顔は真っ青だったという。
急ぎ医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたがその甲斐もなく
午前11時30分に死亡が確認された。    享年 27歳

逝去当時、玉の海の死に顔を見た人達は皆口を揃えて「無念の形相だった」と答えている。
ある付き人が納棺された肩幅の広い
(これが最大の武器で、相手に上手を与えなかった)玉の海を見て
「横綱、窮屈そうだな」と言うと皆、涙が止まらなかったそうである。

わずか10場所だけの横綱だったが、
1970年9月場所から1971年7月場所にかけて6場所連続幕内中日勝ち越しを記録、
この記録は現在でも破られていない。
横綱成績は130勝20敗、1場所平均13勝2敗という驚異的な数字で、
特に1970年9月場所以降に限っては96勝9敗、勝率は9割1分4厘に跳ね上がる。
横綱在位中の勝率8割6分7厘は昭和以降では双葉山に次ぐ第2位、戦後ではもちろん1位である。


        幕内成績:469勝221敗 勝率.680
        横綱成績:130勝20敗 勝率.867
        幕内最高優勝:6回(全勝1回、同点 2回)

当時中学生だった私は、この横綱に双葉山の69連勝を破ってもらいたくて必死で応援していました。しかし、残念ながらその夢はこの大横綱の逝去とともに消え果てました……。




・体重  72.5g
・体脂肪率  27.2% 
・内臓脂肪レベル  14
・骨格筋率  31.2%
・体年齢  56 
・基礎代謝  1626kcai
・BMI  26.0



倒立腕立て 7回
腕立て伏せ 20回 広い手幅 18回
腹筋 30回  他2種目
背筋 1種目
懸垂3回 逆手で狭く 3回
ウォーキング 30分
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by massuru2013 | 2015-02-14 07:57 | Comments(0)

巨人・大鵬・卵焼き

2010年12月12日 (日)の日記より

巨人・大鵬・卵焼き
私たちが子供だった時代に有名だった言葉です。
当時の時代を物語っていますよね~
私はアンチ巨人だったので、学校ではまったく話が合いませんでしたし、相撲取りも豊山が好きでしたので変わりもののように思われたのですが、卵焼きは大好物でした(笑)  
しかし、当時としてはぜいたく品でなかなか食べられませんでしたが、今の子供たちにそんなことを話してもぴんとこないでしょうね。

今日の強豪力士は何と32回も優勝している、その「大鵬」です。

第四十八代横綱 大鵬 幸喜  本名:納谷 幸喜
1940年5月29日生 身長187cm。血液型はB型
樺太敷香郡敷香町出身で北海道川上郡弟子屈町で育った。
ウクライナ人の父と日本人の母キヨとの間に生まれる。本名の納谷は母の姓。

北海道では母子家庭だったために家は貧しく、中学卒業後は弟子屈高校の定時制に通い、弟子屈営林署で働いていたが中途退学して入門。

大鵬という四股名は中国の古典「荘子」にある、翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔すると言われる伝説上の巨大な鳥に由来。この四股名は、師匠二所ノ関が最も有望な弟子に付けるべく温存していたものです。

1960年1月場所新入幕で12勝3敗の好成績を挙げ11月場所で初優勝、史上最年少の20歳6ヶ月で大関へと昇進。
1961年7月場所で2度目の優勝、9月場所で二場所連続優勝を果たし、場所後に柏戸と共に横綱へ昇進。このとき21歳3ヶ月で、それまでの最年少記録を大幅に更新します。

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色白の美男であったため、男性相撲ファンに人気のあった柏戸と比べて、大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、大鵬の絶大な人気がわかります。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったそうです。
ライバルの柏戸は、横綱になってこれからという時に骨折を繰り返し、実力が発揮できずに優勝回数は5回と少なかったものの、土俵を一気に突っ走る豪快な相撲が男性ファンから支持を得ました。子供の好きな「巨人、大鵬、卵焼き」に対して、大人ウケの「大洋、柏戸、水割」という(これは聞いたことがありませんでした)言葉もあったそうです。 後年の「江川・ピーマン・北の湖」と同じく一般にはあまり浸透しなかったのでしょう。

横綱昇進後は6連覇を2度成し遂げるなど大横綱へ向かって記録を作り続けます。
しかし、年とともに衰えは避けることができず数々のけがや病気に襲われますが、残されていた空前の大記録である ”双葉山の69連勝” 挑戦への最大のチャンスはそのころに訪れます。

1968年1月場所に休場、3月場所前に左膝を強打して靭帯を断裂し7月まで休場。9月場所は、初日の栃東に電車道で黒星を喫し、大鵬はもう終わりという声も上がったのですが、翌日から45連勝、1969年3月場所 2日目、戸田に押し出されて連勝はストップしました。
しかし、ビデオ画像や写真では戸田が明らかに土俵の外に足を踏み出していたため、誤審であるとして問題となり、翌場所から相撲の勝負判定にビデオ画像が導入されるきっかけとなりました。
しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分の方に責任があるとして、
「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」
と語っています。

現役晩年に至っても、北の富士と玉の海の両横綱に対しては、最後まで壁として君臨し続け(北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬4勝2敗でリード)
引退2場所前の1971年1月場所に玉の海を本割りと優勝決定戦の2番連続で降し32回目の優勝、同年3月場所ですら12勝と健在ぶりを示しますが、翌5月場所栃富士に敗れ尻から落ちたことで引き時を感じ、5日目に当時上り坂の貴ノ花に寄り倒しで同じく尻から落ちる敗戦を喫すると引退を表明。

取り口は非常に手堅く、若い頃はもろ差しを得意にしていた。胸を合わせず、前かがみになって腰を引く「逆くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込んでいき、投げで崩すか寄り切ると言うのが勝ちパターン。
どんな当たりをも受け止め、崩れない相撲を可能にしていた。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げのうまさが際立っており、伝家の宝刀と称された。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。
突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さゆえによく決まった。
押し相撲や右四つでも相撲が取れた。つまり、良く言えば究極のオールラウンダーであり、悪く言えば絶対的な型がなく、それを双葉山と比較されて批判されたこともあったが、相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点はすばらしく、師匠である二所ノ関は「型の無いのが大鵬の型」「名人に型なし」と言って批判に反駁した。
大鵬が勝ち続け、昭和の大横綱へと成長すると、「型の無い」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。


通算成績:872勝182敗136休 勝率.827
幕内成績:746勝144敗136休 勝率.838
横綱成績:622勝103敗136休 勝率.858
幕内最高優勝:32回(歴代1位)
全勝:8回(歴代1位タイ)
連勝数:45

「型の無いのが大鵬の型」、さすがは師匠ですね、弟子の相撲をしっかりと守っています。 
この師匠は元大関「佐賀の花」で佐賀県出身の方です。

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しかし、世紀の誤審の後の言葉はやはり大横綱のものですね(感動) ていた。



・体重  73.0g
・体脂肪率  26.0% 
・内臓脂肪レベル  14
・骨格筋率  32.2%
・体年齢  55 
・基礎代謝  1644kcai
・BMI  26.2
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by massuru2013 | 2015-02-13 06:10 | Comments(0)

不世出の大横綱

2010年12月10日 (金)の日記より

今日の強豪力士紹介は、白鵬により空間を超えて呼ばれた、
不滅の大記録 ”69連勝” の記録を持つ双葉山です。

「双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」 といわれた、まさしく不世出の大横綱!

双葉山 定次     第35代横綱。
大分県宇佐出身、身長179cm、体重128kg。

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少年時代は成績優秀だったそうですが、父の事業の失敗や、母や兄、姉の死もあり、進学せずに
家業の木炭商と海運業を手伝っています。しかし、その時に船の機械で右手の小指が潰され、
また少年時代の負傷が元で右目が半失明状態になってもいました。

入門から連勝開始までは目立った力士ではなく、ただ、膝関節が柔軟で足腰が非常に強く
攻め込まれても簡単には土俵を割らず土俵際での逆転勝ちが多かったようです。
そのため 「うっちゃりの双葉」 と言われていたくらいの力士でした。

1935年、蓄膿症の手術を機に体重が増え取り口が大きく変化、
特に相手より一瞬遅れて立つように見えながら、攻撃はほとんど相手に先行するという、
武道のやり方として有名な、「後の先をとる」 という技術を身につけ、
そこから右四つになって左上手を取り、常識を超えていたといわれる強烈な左上手投げを炸裂させ、
相手を軽々と放り投げるという 「右四つ左上手」 の形を完成させたのは有名。 
双葉山が得意の左上手を取ると観客は安心して帰っていったという伝説も残っています。

快進撃の始まりは1936年1月場所7日目からで
1936年5月場所を関脇で11戦全勝優勝し大関へ
1937年1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し横綱へ
1938年1月場所と5月場所を13戦全勝で5場所連続全勝優勝
谷風の63連勝を約150年ぶりに塗り替える

1939年1月場所4日目、連勝を69にまで積み重ねた双葉山は、出羽海部屋の新鋭・安芸ノ海と対戦。
場所前にアメーバ赤痢のため体重が激減して休場も考えたといわれますが、場所の1ヶ月前に
横綱玉錦が現役死したこともあり、責任感の強い双葉山は強行出場。

連勝がついにストップしたこの一番は、双葉山が3度目の右掬い投げを放った瞬間、安芸ノ海の
左外掛けが双葉山の右足を捕らえ、双葉山は崩れるように倒れてついに連勝がストップ、
この ”双葉山の連勝ストップ” には号外も出たといいます。

安芸ノ海の所属する出羽海一門にとって当時連勝中だった双葉山の打倒は悲願であり、
当時としては珍しい学士力士(早稲田大学卒業)笠置山を作戦参謀に、
 「打倒・双葉山」 の研究と稽古をしていました。
双葉山は幼い頃に友人の吹き矢が右目に当たり、ほとんど右目が見えなかったといわれ、
その事実は、親と親方夫婦以外には知られていませんでした。しかし、笠置山は研究の中で
双葉山の取り組みを分析、双葉山の右目の状態を認識してそこを狙う作戦を立てていたていた
といわれてます。
そして、安芸ノ海の殊勲の勝利は作戦通りとなり、出羽一門の悲願は達成されました。

しかし、双葉山は約3年ぶりに黒星を喫して69連勝で止められたにもかかわらず普段通り一礼をし、
まったく表情も変えずに引き揚げて行き、その日の夜、師と仰ぐ安岡正篤に 
「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」 と打電したのは有名な話です。
このように、強さだけでなく常に礼儀正しく、相撲内容も相手が立てば待ったをせずにいつでも立つ
といった武道者的な態度から、「角聖」 の異名で知られた明治の常陸山谷右エ門と並ぶ偉大な力士
として 「相撲の神様」  「昭和の角聖」 と呼ばれています。

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幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率8割2厘。
横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘
優勝12回
全勝8回
5場所連続の全勝優勝
そして前人未到の69連勝

1957年、相撲協会理事長に就任
1968年、劇症肝炎にて逝去、享年56

偉大な力士はすばらしい人格者でもあったのですね~(感動)




・体重  72.9g
・体脂肪率  26.4% 
・内臓脂肪レベル  14
・骨格筋率  31.9%
・体年齢  55 
・基礎代謝  1640kcai
・BMI  26.1



倒立腕立て 8回
腕立て伏せ 20回
腹筋 40回 
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by massuru2013 | 2015-02-10 07:25 | Comments(0)

角聖

2010年12月4日 (土)の日記より

強豪力士の紹介が続いていますが、今回は現役時代の強さだけでなく、引退後も協会のために尽力し
その功績を称えられて ”角聖” とまで呼ばれた、第19代横綱 「常陸山谷右エ門」 を紹介します。 

1874年 水戸藩の上級藩士の家に生まれる
1890年 入門
1897年 春ごろから快進撃を続け、新入幕でいきなりの優勝相当成績
1901年 関脇で2度目の優勝相当成績後大関へ
1903年 初の全勝で4度目の優勝相当成績を挙げ横綱免許授与が決まる
その時の逸話として、自身と同じ強さで観客を沸かせた梅ヶ谷の健闘を称え、
「できれば梅ヶ谷関といっしょにお願いします。」
と返答したという、人としての器の大きさがよくわかる話が残っています。
そしてその後は、「梅常陸時代」と呼ばれる明治時代後期の相撲黄金時代を築きました。

常陸山の相撲は、相手の声で受けて立ち十分に取らせてから反撃するという、まさしく「横綱相撲」
で、その取り口から、江戸時代の大横綱 ”谷風の再来” とまで言われたそうです。
しかし、このような相撲は余程の力量差がなければ不可能で、全盛期の強さがいかに驚異的であった
か推測されます。

1907年には門弟3人を連れて欧米を漫遊し、時のルーズベルト大統領と会見してホワイトハウスで土俵入りを披露。

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現役時代の体格は、身長五尺七寸四分(174cm)、体重39貫(146kg)
幕内通算150勝15敗、22分、2預  歴代横綱では最後の9割越え
横綱成績83勝10敗17分 2預97休
優勝額掲額制度の発足前に優勝相当成績6回、制度発足後優勝1回

大正3年引退、年寄出羽ノ海を継ぐ

引退後は後進の指導にあたり、その厳しさはつとに有名で稽古場では常に青竹のステッキを持って現れ、
後の横綱たちさえもこのステッキを持った師匠が来れば震え上がったといいます。
また、有望な力士には一門や陣営の区別なく稽古をつけ、横綱栃木山以下の名力士を多数育成、
出羽海一門の礎を築きます。

武士の家に生まれた為に力士は侍であるとの思想を持ち、現役時代から力士の品位を向上させる努力
を行い、引退後は相撲協会取締役として大相撲を国技と呼ばれる程までの地位に高め、〝角聖〟と
呼ばれます。そして、引退後の実績から現役時代の強さを超えた ”別格横綱” とされました。

1922年6月19日死去  享年48歳。
葬儀は史上初の協会葬として行われ、その葬列は上野駅から両国橋まで途切れる事なく続いたそうです。

すごいですね~
特に引退後の実績がすごいです(感動)
これも、小さい頃から武士として厳しく育てられてきたことが役に立ったんでしょうね。 
武士道の素晴らしさが ”明” として表れたひとつに例でしょう。


体重  72.5g
・体脂肪率  27.1% 
・内臓脂肪レベル  14
・骨格筋率  31.3%
・体年齢  55 
・基礎代謝  1627kcai
・BMI  26.0
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by massuru2013 | 2015-02-04 06:05 | Comments(0)

あわや100連勝

2010年11月26日 (金)の日記より

あわや100連勝の横綱 太刀山峰衛門

白鵬の63連勝から江戸時代の伝説的な強豪力士
「谷風」 と 「雷電」 を紹介しましたが、こうなれば気持ちも乗ってきましたので、
しばらくその後の強豪力士紹介をしたいと思います。
(といってもそれほど相撲界に詳しいわけではありませんが……)

今日は、明治末から大正時代に活躍し
”あわや100連勝” 
を達成していたかもわからないという「太刀山峰衛門」です。

富山県富山市出身で、子供のころから怪力で注目を浴び、徴兵検査では五斗俵4つを括りつけて持ち
運んだり、相撲界に入っても400kgの砲弾を片手で持ち上げて振り回し周囲の人々を驚かせています。
そしてその怪力からの突きは、誰も二突きとは耐えられないため、一突き半で終わりだから、
  一月半で ”四十五日の突き
と名付けられます(驚)

また、組んでからの「呼び戻し」は相手が裏返しにひっくり返ることから
   ”仏壇返し
との名前が!  
(恐ろしい技ばかりですね、相手は恐怖だったでしょう。実際、にらみながら前に出ただけで相手が下がって行き、「にらみ出し」という勝ち方をしたこともあるとか……。)

この「四十五日」と「仏壇返し」で相手を圧倒し、横綱時代に喫した黒星はわずかに3つ、横綱のみ
の記録だけでは大相撲史上最強の力士といわれています。


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そして明治末、黒星ひとつを挟んで43連勝と56連勝というとてつもない記録を樹立。 
その間の1敗がなければ空前絶後の100連勝になっていたのです(う~ん)
しかし、当時はがっぷり四つでしのぎあう相撲が全盛で、瞬間で勝負をつける取り口は面白みに欠けると言われ、余りの強さもあって人気がなかったみたいです。
(1917年の1月場所千秋楽で、全勝の太刀山と全勝の大関・大錦の決戦となり、猛然と立った大錦が
もろ差しで横綱を土俵際まで追い詰めます。あわてた太刀山が小手投げを打つが決まらず、大錦が腰を落として寄り切ります。 その瞬間場内は大熱狂に包まれ、観客は総立ちになって国技館は崩れん
ばかりの大騒ぎとなったそうです。 双葉山70連勝ならずの一番など、国技館が大熱狂に包まれことはありましたが、この時は、それらとは比較にならない程の大騒動だったそうです。)

しかしこの大横綱、その怪力に似合わず絵がとてもうまかったということで、ファンのみでなく、
協会内部でも人気がなくて役員選挙に負けるとさっさと相撲界を出て、絵を描きながらのんびりと
暮したそうです。

幕内成績:195勝27敗10分5預73休 勝率.878
幕内在位:31場所
優勝:9回(ほか優勝相当成績2回)
大関昇進以後は無敵で、横綱時代に喫した黒星は僅か3で勝率は.966(84勝3敗1分1預51休)
谷風を1厘上回る最高記録です



・体重  73.3g
・体脂肪率  26.4% 
・内臓脂肪レベル  14
・骨格筋率  31.9%
・体年齢  55 
・基礎代謝  1646kcai
・BMI  26.3


ウォーキング 30分
腕立て伏せ 25回
腹筋 45回 
背筋 1種目
スクワット40回
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by massuru2013 | 2015-01-31 06:38 | Comments(0)